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2008年5月

成果主義から定性評価へ

今日の日経新聞で、三井物産の人事評価制度の話が出ていた。この会社では成果主義を導入し、売上高の前年比、新規事業件数などの定量的な評価で給与に大きく差をつけていたのだが、それをやめて定性評価に戻したという内容だ。

成果主義だと「稼ぐ社員がいい社員」、「業務知識や人脈は人に教えると損」という風潮が広まり、「人の三井」の強みが損なわれてきたとのこと。

変更後の定性評価の項目は以下のようなものである。

・企画立案:

広い視野で先を見通して構想する

・実行推進:

人をひきつけ、協働する

信念と熱意をもってやりとげる

・人材育成・指導:

    相手を知り、持ち味を認める

    期待をかけ、仕事を任せる

三井物産のマネージャーのコメントとして、人事面接の雰囲気が明るくなったとあったが、それはそうだろう。頑張っていれば結果は問われないわけだからなあ。頑張るだけなら誰でもできると思うけど・・・

1.   成果主義が悪いのか?

三井物産の人事企画室長は「利益評価からプロセス評価へと変えた」とコメントしている。そう、三井物産の評価は「成果主義」というよりは「利益評価」だったからうまくいかななかったのではないだろうか。上であげた「企画立案」、「実行推進」、「人材育成・指導」は全て成果を測ることは可能だと思う。そこを問わずに「プロセス」だけ評価するのはなぜだろう。どうやって評価するのだろうか。納得のいく評価がつくのだろうか??

どうも成果=利益=悪という思考にとらわれているような気がする。

2.   単に昔のやり方への回帰か?

三井物産はこの他にも、新入社員の大半に寮に入ることを義務づけたそうだ。その点から考えると、ひょっとすると単に「昔のやり方はよかった。最近の若者は甘い。昔のやり方で彼らを鍛えるべきだ。」という、先輩社員のノスタルジーからくる揺り戻しかもしれない。

昔のやり方が良いのか、今のやり方が良いのかはわからないが、現在の若者の考え方、時間の使い方が変わっていることだけは確かだ。

最近、部下との「飲みゅニケーション(死語)」を推奨し、会社が費用を出すという会社の記事も読んだが、自社の若者の変化に対応できない会社が市場の変化に迅速に対応できるとは思えないけど。

ということで、この成果主義と定性評価の間の揺り戻しがどういった落とし所に落ち着くのだろうか。

ところで「業務知識や人脈は人に教えると損」という考え方。これって本当に間違いだろうか。一人一人が「人に教えると損だな」と思えるくらいの知識や人脈といった「情報」持つような会社は、ひょっとすると理想のプロ集団かもしれない。ただ日本では大学で一度頭を「リセット」して、真っ白な状態から社会人教育が始まるので、やはり知識・知恵の伝承は必要なのかもしれない。でも自分達が学生の頃と比べると、最近の学生はきちんと勉強して優秀な学生が多いので、こうした考え方も改めなければならないかも。

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水着競争:現場に答えはあるのか

世界新記録連発で注目の、SPEEDO社のレーザー・レーサー。体を締め付けて筋肉の揺れを軽減したり、縫い目のない縫製を実現したりなどで推進力が増しているとのことだ。自分は泳がないのでさっぱりわからないけど。

そして今話題なのが、日本水泳連盟が2012年まではアシックス、ミズノ、デサント(arena)の3社と契約をしているため、日本選手が北京五輪で着ることができないという点である。もっとも2006年6月までは、SPEEDO社の水着はミズノがライセンス契約を結んで販売していて、北島選手を始め多くの日本選手が着ていたわけで、まあ運が悪いということだろうか。

1.3社との契約に問題はなかったのか?

日本水泳連盟は3社とオフィシャル・サプライヤー契約を結んでいたわけだが、独占の見返りに巨額のスポンサー料をもらっているのだろう。それにしても「独占」ということは、他社に劣る水着である可能性も含めて「独占」であるわけで、他に優れた水着が出る可能性は考慮していなかったのだろうか?3社にはブランドの宣伝というだけでなく、優れた水着を提供する「義務」があるわけで、何らかのターゲットを設定して、これを縛る契約にすることはできなかったのだろうか?

2.水泳は団体競技なのか?

個人的にメーカーとスポンサー契約をしている場合は別として、連盟として個人である選手に水着のメーカーの制限をつけるという発想が理解できない。日本全体へのサプライヤー契約であるなら、チームジャージとかキャップとかで揃えるべきで、水着は個人の好みの問題が大きいので縛らない方が普通の発想ではないだろうか。例えばサッカーはシューズは個人の好みで作っており、いくら日本代表のユニフォームのサプライヤーがアディダスだろうがシューズにまで縛りはない。

いつもオリンピックなどで気になるのだが、「チーム日本」が強調されていて、試合の合間の選手も皆応援に駆り出されていたり、まるで団体競技のようだ。柔道よりもそれを強く感じる。

3.日本のメーカーが悪いのか?

報道の論調も、SPEEDO社との技術競争に負けた日本のメーカーが悪いように書かれているが、オリンピック級の選手の水着は、選手の要望を最大限に聞いて開発されているはずだ。レーザー・レーサーは非常に薄い布地でできているそうだが、日本人は透けるのをいやがり、薄い布地を嫌うらしい。また「動きの邪魔をしない」ことを重要視してきたので、着るのに30分もかかるような、きつい水着は嫌ってきたのだろう。つまり日本のメーカーは選手に水着を合わせてきたのに対し、SPEEDO社は水着に選手が合わせることを求めてきたということだ。

大きな技術革新・イノベーションのヒントはやはり現場にあると思う。しかし、答えがいつもそのままあるとは限らない。現場がまだ知らないこと、もしくは間違っていることもあるということで、そこをあえてくつがえすところに大きなイノベーションが生まれるということだろう。

ちなみにレーザー・レーサーは既に一般向けに予約販売が始まっていて、タイプによって価格は異なるが4万円台から6万円台。何かと「世界新連発」と機能面ばかり強調されているが、デザインはコム・デ・ギャルソンとのコラボで、右足には「心」という字をモチーフにしたデザインが施されている。これを日本人が着れないとしたら、皮肉だなー。

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家事の値段

今日は母の日。

毎年この次期に、米国の「Saraly.com」という会社が、主婦がしている家事に対して給与を支払うとするといくらになるか("Annual valuation of mom's job")、という試算を発表している。

この会社のウェブサイトでは、子供の数や家事にかかる時間などを入れていくとそれが年俸いくらに相当するかを試算するサービスがあり、これをもとに計算しているのだが、今年の値段はカナダの専業主婦で1,280万円、兼業主婦で770万円(仕事の収入を除く)とのことだった。なぜか米国はもう少し安くて専業主婦が1,200万円。2年前が1,500万円超だったことを考えるとやはりサブプライム問題が影響しているのだろうか?(笑)

これだけの金額になる大きな要因は、残業時間の多さだ。専業主婦で月平均90時間以上、兼業主婦でも仕事以外に55時間にもなる。この数字を見ると年収1,200万に満たないサラリーマンに、「俺は毎日仕事で大変だ」という資格はない、ということになる。

ちなみに日本で行われた試算を探してみると、15年前に茨城県が実施したものがあり、一番高く見積もられた25歳~34歳の専業主婦でわずか333万円となっていた。茨城の主婦が特に仕事をしないわけじゃないだろうし、まだまだ「家事は女性がやるもの」という根強い考え方が日本にはあるんだろう。

ちなみに母の日というのは世界中どこでも存在する。5月の第2日曜日は米国、カナダ、ドイツ、イタリアなどで、あとは5月が多いがばらばらだ。

一方父の日は日本もそうだけど母の日に比べて盛大ではない。もともと米国で「母の日があるんだから父の日も作ろう」とバランスを取るために作られたくらいなので・・・

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日本人は集団主義でない?

ちょっと前になるが、東京大学と京都光華女子大のグループが、心理学の実験の結果「日本人は集団主義」という見方は誤りで、周りへの同調しやすさは米国人並み(に低い)、という研究結果を発表した。近々「ジャーナル・オブ・クロスカルチュラル・サイコロジー」という専門誌に発表されるということだ。

実験は学生に一本の線を書いた紙と、長さの違う3本の線を書いた紙を同じサークルの学生5-9人に同時に見せ、サクラの中に1人だけ混ぜられた学生が、サクラたちの間違いに同調するかを調べる、というやり方で行われ、同調した結果は日米ほぼ変わらず25%だった。これをもって東大の高野教授は「日本人は和を乱すことを嫌い、近しい人の言葉には同調しやすいという通説は誤りで、米国が異なる文化を持つ国に投影したイメージを日本人自らが信じたと考えられる」とコメントしている。

この記事を読んで、今ひとつピンと来るものがないので、どういうことなのか考えた。

まず実験方法が適切なのかどうか。集団主義=自分の利益よりも所属する集団の利益を優先させる、これを実証するのには適切ではないと思う。サンプリングとしてもおかしいし、サークルがどの程度密度の濃い集団かどうかもわからないし。

そこを議論しても本質的ではないので、実験の仕方はさておき、この記事の背景には、「米国=個人主義、日本=集団主義」という前提条件がある。

自分は日本企業、外資系企業の両方に勤務した経験があるが、どうもこの前提条件はピンと来ない。米国人は確かに個人の利益を日本人よりも重視するが、会社全体の利益に貢献する意識も日本人以上に強い。有事の際の団結力(一種の思考停止状態だけど)は日本人より上ではないだろうか。

一方で日本人は集団主義というのはちょっと違うと思う。「自分ひとりくらい誤ったことをしてもいいだろう」と考える人は米国人よりもむしろ多いと思うし。

この点について、北大の山岸俊男教授は面白い見解を示している。まとめるとこんな感じ。

1.日本人は自分たち日本人のことを集団主義的な傾向があると考えているが、自分だけは例外と考えている集団である。

2.内心では「個人主義でいい」と思いながら、「周囲は集団主義的に考えているに違いない」と思い込んで行動する結果、社会全体としては集団主義的な傾向を示す。

3.この背景には「ムラ社会」という歴史がある。つまりメンバーが相互に監視し、何かあったときに制裁を与える仕組みが古くから存在するが、その反面監視するシステムがないと「自分1人くらいいいだろう」と考える。

これはいわゆる伝統的な日本企業のことを考えると理解しやすいのではないだろうか。つまり皆で遅くまで残業し、さらにはその後に飲みに行って「苦労」を共有し、そこから外れる人は「協調性、団結心がない」として非難してきた。ただ近年は残業も減らせと言われ、会社と個人の「公私のけじめ」が明確になるにつれ、相互監視システムがなくなり、組織システムを欧米化したわりにはうまく機能していない、ということが起こっているのだろう。

もちろんこれは古い世代にばかり当てはまるのではない。例えば自分より若い世代でいうと、最近就職活動の学生の服装が以前よりも画一化されていることにお気づきだろうか?以前であれば紺とかグレーのスーツもあったと思うが、今は皆濃紺から黒である。男子は白ワイシャツにストライプのネクタイに布かばん、女子は髪をとめ、白の大きな襟のブラウスを着て襟を出し、黒い靴を履く。これだけ同じ格好をして「自分は人とは違う」ことをアピールするのだから、何かブラックジョークみたいな感じだ。

この記事の何がおかしいか。それは日本人は集団主義か、個人主義か、その問題設定自体がおかしいのだろう。日本人は恐らく個人レベルでは自分の利益を優先する個人主義であるが、集団の考え方には従って黙っているという点では「集団主義」でもある。つまりどちらかに分けようとすること自体がナンセンスであり、もう少し違った切り口で分析しないと説明ができないんだと思う。

まあそもそも米国人と日本人という、世界からみると「国際的でない」2カ国の比較自体が「クロスカルチュラル・サイコロジー」というジャーナル名から考えるとナンセンスかも。

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