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2008年4月

野村のインサイダー取引

今週、大きくニュースでも取り上げられているが、またインサイダー取引の問題だ。今年に入ってもう3件目の事件になる。1件目が1月のNHK。あ、そういえばこの件は「内部調査」の結果数名が処罰されただけで、何となくうやむやだなあ。あとは3月の新日本監査法人での公認会計士のインサイダー。ちょっとさかのぼると、2002年11月と2003年7月のいずれもニチメン子会社のTOB絡みで、大和証券SMBCと野村が摘発された。あとは2006年2月の日経新聞広告局。まずは今年に入ってもう3件目であることと、M&Aの担当者という「1番インサイダー情報を持っていて、仕組み上その情報を使って私的な株式取引をしていないか監視されるべき人」による犯罪ということで、今までとは意味合いが異なる。

1.個人の問題か、組織の問題か?

野村の社長の会見では「あくまで個人の問題」と言いたいようだった。しかし監視、防止の体制は当然取られるべきであり、機能していなかったということはやはり組織の問題だろう。今回の報道で気になるのは「中国人社員」という点が強調されていることだ。一部の報道は、まるで野村が被害者であるようなニュアンスの扱いをしていたが、例えばメリルリンチでフランス人社員がインサイダーをやったらそのような反応になるだろうか。国籍なんて全く関係ないだろう。「野村の北海道出身の社員が」といったら「あー北海道の人は・・・」となるだろうか??

2.人間は基本的に不正を働くものである

不正行為に対処する場合の考え方として、人間は基本的に正直者だという性善説にたつのか、逆に不正を働く機会をうかがう者だという性悪説にたつか、と言う問題がある。

この点に関しては、MITの教授、ダン・アリエリーが、数千人の人をサンプルにして、不正をしたかどうか他人にはわからない状態で人間はどう行動するか、という実験をし、結果をまとめている。

実験から得られた結論は、(1)ほとんどの人間は、そそのかされると多少のリスクがあろうとも「わずかの」不正を働くことをいとわない。 (2)逆にばれるリスクがゼロになったとしても「大きく」不正を働くことはない。 (3)実験の前に倫理規定に署名させるなど自らの誠実さを意識させると不正は完全に消える。 (4)不正をする対象を現金ではなくモノにすると、不正の度合いは大きくなる。(つまり不正への心理的許容度が大きくなる)

この点から考えてみても、不正をなくすにはいかに倫理意識を徹底させるかがポイントであり、5年間で2度もインサイダー問題を起こした野村に組織的な問題がなかったかどうかは十分に調査する必要があると思う。

3.そもそもそんなに発見は難しいのか?

それにしても、今回のインサイダー取引は「巧妙だった」ので見つけにくかったとされている。証券取引等監視委員会が、たまたま野村が主幹事を勤める企業に共通して、重要情報の発表前に同一名義の中国人の買いが重なっていたことから、内部に情報提供者がいると考えて友人である野村社員にたどり着いたということだ。しかも自分名義の口座でもなく、野村の口座でもないので発見が遅れた、と。

そんなに高レベルのやり方だろうか?素人レベルではないか!?もしこれが日本人だと気づきもしないということだろうか?

4.これは一罰百戒か?

今回もTVでコメンテーターが「インサイダー問題はグレーな部分が多いので難しい問題だ」と言っていた。前にも書いたが何がグレーなのだろうか。

確かに株式の取引は、他人が知らない情報で値動きの先手を打って儲けるわけなので、不透明な部分はある。しかし「インサイダー取引」の定義は明確であり、明確に処罰すべきだと思う。重要事項の発表前に株価が動いていることは、素人がチャートを見てもわかることで、これを「グレー」として放置する限り、日本の株式市場は世界から信用されないままだろう。

もしこの一件が「見せしめ」的な摘発であるとしたら、そのような考え方は誤りで、どんな小さなものでも摘発していかないと歯止めにはならないだろう。日本では確実に有罪なものでなければ起訴しにくいので、立件の難しいインサイダー問題は当局もあまり深入りできない、という事情もあるのかもしれない。しかし政府も「貯蓄から投資へ」と一般市民に訴えている以上、公正な場を用意する責任もあると思うがどうだろう。

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あきらめなければ夢はかなうのか?高橋尚子と夢手帳の話

先月の話になるが、マラソンの高橋尚子選手が、大会前にインタビューで抱負を聞かれてこう答えていた。「あきらめなければ夢は必ずかなう、ということを皆さんに伝えられるような大会にしたい。」 正確ではないけどこんな感じ。

別に惨敗したから言うわけではなく、このインタビューを聞いたときにものすごい違和感を感じた。「あきらめれば夢は絶対かなわない」ならわかるんだけどなあ。

あきらめていないのに夢がかなわない人はたくさんいるわけで、というよりも圧倒的大多数はそういう人だろう。 つまり「あきらめなければ夢は必ずかなう」というのは、夢がかなったほんのわずかな人の感想であって、大多数には全くあてはまらない法則だ。確率からいうと「年末ジャンボは、当たると信じて買い続ければ必ず当たる」と、毎年買っていてある年当たった人が言ったコメントみたいな感じだろうか。そういう自分も「そうだよな、とにかく買わなきゃ当たらないよな」と思ってしまうけど。

こう言うと「いや、高橋選手は血のにじむような努力をしている」と言うかもしれないが、人より努力するだけでは夢はかなわないと思う。高橋選手よりも努力している人なんてたくさんいただろう。「その夢をかなえるだけの才能を持って生まれた人が、目標を達成するための正しい努力をたくさんして、なおかつ運がよければ大きな夢もかなえることができる」 こういうと少し正しいだろうか。なんだか小難しいなあ。

1.これを手帳の話でいうと・・・

この話で思いつくのが「夢を手帳に書けば必ずかなう」系の手帳(以下「夢手帳」と呼びます)だ。実は以前にも書いたが自分はもう10年以上「フランクリンシステム」の手帳を使っているが、このフランクリンも「人生は手帳で変わる」なんていう本を出しているので、自分も夢手帳ユーザーということになる。(苦笑)

最近経済評論家の山崎元氏もブログで書かれていたのと同意見になるが、夢を手帳に書かないよりは書いた方が意識付けになるのは確かだけど、手帳に目標と達成手段を各行為と、実際に努力を続ける行為にはものすごいギャップがあると思う。

もし夢を手帳に書いて、日々の目標にドリルダウンして、それを実行して確実にかなうとしたら、その夢は達成可能性が高い夢にすぎなかった、ということだろう。

でも本当に想定もしていない展開になるとしたら、それは手帳の上で考え抜いたロジックを超えたハプニングがあるときだと思う。頭の中で考えたロジックの中に閉じこもって生活していると、そうした飛躍のチャンスも見逃してしまう。

なので、夢手帳は目標設定とその達成のためのドリルダウンを確実にするためのツールであり、「夢をかなえる」ものとは思わない方がいいだろう。

2.夢手帳の誤った方向性

最初の高橋選手の言葉に戻るが、「皆さんに伝えたい」という表現。これも気になって仕方がない。彼女はスポンサーのついた「商品」であるので、もし「商品力」を自分で維持するための筋書きだとしたら安心だ。いや、尊敬するなあ。

ただ、彼女のコメントをネットで検索して驚いたのだが、本当に何の疑問もなく「Qちゃんの熱い気持ちが伝わった」とか「勇気をもらった」系のコメントが多いのだ。「Qちゃんはレースに負けたけど、それは単なる目標の1つであって、彼女の夢はもっと深いところにあるに違いない」とまで書いている人もいた。そうかなあ!?!?

恐らく「あきらめなければ夢はかなう」という言葉は、何かに救いを求める人の気持ちに入っていきやすい言葉なのではないだろうか。

これは最近の夢手帳系ユーザーにも見られる現象だ。mixiの夢手帳系コミュニティで、最近「皆で集まって手帳に自分の価値観や目標を一緒に書きましょう」みたいな集まりが各地で増えているのだ。

手帳に何かを書くとか生かすというのは、ものすごく個人的な行動なのに、集まって書き方を教えあうなんて、ネットで何でも簡単に教えてもらおうとする風潮の表れかな、と思っていたのだが、どうも違う雰囲気だ。

「信じれば夢はかなう。そう思っている人で集まって、その仲間を増やそう」というのはまるで宗教と同じだ。つまり、「夢手帳」は宗教的な「心のよりどころ」になってしまう危険性があると思う。

さて、高橋尚子はこれからどこに向かっていくのか?宗教家か、それとも政治家か??増田明美の座を奪って普通にマラソン・コメンテーターだったらいいんだけどなあ。

あと、「あきらめなければ夢はかなう」と信じた人は、そうではないと感じたときにその現実とどう折り合いをつけていくのか??そっちの方がよっぽど心配だ。

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社長が2人?

今週一番驚いたニュース。新聞の見出しを読んで一瞬理解できなかった。

中古車売買のガリバーの新社長に息子で専務の兄(37)と弟(35)が就任。

あー、子供に社長を譲って、自分は会長に退くんだ・・・って社長が2人??

そう、会社の「トップ」は会社法上は「代表取締役」であり、「社長」というのはあくまで社内での呼称にすぎないので、別に2人いようが問題はないのだ。「代表取締役大将」でも「キャプテン」でもいいわけだ。

この兄弟は、H7年に同時に取締役に、H11年に同時に常務になったのだが、H13年に兄だけが専務になり、弟は5年遅れてH18年に専務昇進、そして今回は再び同時に社長だ。一時は兄が後継候補だったのが弟が巻き返して追いついた、ということだろうか。

であれば、社長はそのままで、2人の専務を副社長に、というのでは何がいけなかったのだろうか。ガリバーは「社長2人体制で会社を牽引することが、さらなる株主価値の向上につながる」と言っているが支離滅裂だ。肉体的パワーで引っ張るわけじゃないんだから、1人より2人の方が力が出る、というものでもないだろう。

社長の役割はいろいろあるが、社長にしかできない仕事は、「意思決定すること」だ。何をやるかを決めること。もっと難しいのは何をやらないかを決めること。もちろん正解は誰にもわからないし、判断のベースとなる情報、データも完全に揃うわけでもない。そんな中でも最後は1つに決めなければならない。2人のトップがいるとこの「意思決定」プロセスがとても複雑になる。

シナリオ1: 会長が引き続き意思決定する。

恐らくこれが実際だろう。意思決定はあくまで会長がやる。となると社長なんて名ばかりということになる。名ばかりならむしろ良いのだが、社長という肩書きを与えられると彼らもそれらしい振る舞いをするだろうし、社員はその対応に追われるんだろうなあ。

シナリオ2: 本当に社長が2人力を合わせて意思決定する。

一方会長の言うことが本当だったら何が起こるか。それは社内政治だ。それぞれの社長に十分根回しをして、どっちが勝ったとか誰がどっち派だとか、そういうことが始まるのは組織論上当然の結果だ。

創業社長の最大の仕事は「後継者を決めること」だ。ガリバーの社長は、その最大の仕事をできなかったといえる。ファミリー企業であれば問題はないが、ガリバーは上場企業である。投資家に十分な説明をすることが求められるだろうが、「2人の新社長は創業時からのメンバーであり・・・」としか説明していない。社歴が長いと経営能力が高いと考えているのだろうか??      

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名ばかり管理職

昨日のNHKスペシャルで、「名ばかり管理職」の実態について取り上げられていた。最近もマクドナルドの店長が、管理職としての実態がないのに残業代が支払われていないと訴訟を起こして、店長の主張が認められたことでスポットが当たっている。

労働時間は、労働基準法で1日8時間、週40時間までと定められており、これを超えると残業代などの割増賃金を支払わなければならない。ただし、この条項の適用除外者が定められている。それは「事業の種類に関わらず、監督もしくは管理の地位にあるもの」または「機密の事務を取り扱う者」であり、これが労働基準法で想定されている管理監督者だ。

この定義は、いわゆる企業の「管理職」の定義とはずいぶん異なっている。一般的に管理職とは社内グレードが定められた段階に達したら、管理監督の地位にあろうがなかろうが「管理職」とみなされる。労働基準法からいうと「部下のいない管理職」というのは制定時に想定していなかったのだろう。組織の階層が少なくなって「フラット化」しているのも一因かもしれない。

昨日の番組の中では「管理職」という言葉が使われていたが、「名ばかり管理職」問題のポイントの1つはここにあると思う。つまり残業代を支払わなくて良いという根拠になっている労働基準法の定める「管理監督者」と、企業がそれぞれの基準で定める「管理職」が全く別の概念であることだ。このギャップについては番組では触れられていなかった。

その代わり、労働基準監督署が管理職としての実態があるかどうかを判断するポイントとして以下の3つあげられていた。

1.経営者と一体の立場にあるか

2.労働時間を管理されない

3.相応の報酬がある

このうち、1つでも該当しないものがあれば違法とみなされる。

番組で取り上げられていた部品工場の社長は、自社の課長が管理職に該当しないと指摘され「青天の霹靂」だったが彼らを一般職に戻したそうだ。その結果、残業をするのが厳しくなり、思うように仕事が進まないと社長も、一般職に戻った元課長も困惑している様子が報じられていた。

ここに2つ目の問題がある。管理職に該当しない、という指摘を受けたのであれば、労働基準監督署の定める管理職の定義にあてはまるようにすれば良いのではないか?上記1は説明できると思うので、2にあるように時間を自由にする。これもできると思う。そう、問題は3。ここでの問題は単に企業が労働者に余分(従来のやり方と比べて)なお金を支払いたくない、という問題なんだと思う。

つまり

A: 管理職でなくして、一般職にして残業代を支払う。=ただし残業をさせない

B: 管理職にしてたくさん働かせる=ただしそれなりの報酬は支払う

の選択肢しかないわけで、それならAにして残業を強制的にさせない、という方向に行くしかない。人件費を増やさずに、仕事量を確保したいのであれば、管理職はなくして、昼間にいかに集中してアウトプットを出させるか、これに知恵を絞るべきだと思う。

もう1つ、逆に労働者側の問題。番組中で、生産ラインの課長をやっていて、月100時間の残業をしていた人が、一般職にさせられ、残業も届出制になり、やりにくくなったと言っていた。労働時間については束縛を受けたくない、と。しかしこれは大きな誤りだ。一般職であれ、管理職であれ、裁量労働制でない限り、かける時間は会社にとってのコストであり、それを労働者が決定する権利はないと思う。

ところで、「名ばかり管理職」を批判する人は、本当に「名ばかり管理職」がいやなのだろうか?もし残業もそんなになくて、「名ばかり管理職」だったらむしろうれしいくらいではないだろうか?つまり問題は「労働時間のわりに給料が安い」、という点にだけ焦点があたっており、「管理職としての権限をくれ」という方向には行っていない。

東京労働局が企業の「管理職と一般職の違い」を調査したところ、対外呼称の使用(名刺に課長と書ける、など)、いすに肘掛けがついている、などがあった。ちょっと笑えるが自分が以前働いていた会社ではいまだにこれが当てはまる。労働者側もこうしたまさに「名ばかり管理職」を目指すのではなく、本当の「管理職」を目指すような意識改革も必要だと思う。

最後に、番組で残業ができなくなって20時頃仕事を切り上げて不服そうに帰宅する元管理職を見て、一緒に見ていた妻は一言。「家族は喜んでるんじゃない?」 うーん、この問題は「仕事は何のためにしているのか」という根本的な問題でもあるのかもしれない。家族のインタビューも聞いてみたかったな。

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